2020年04月20日 (月) | 編集 |
ここ最近、スマホの全能性にどこか疑問を感じることが多く、少し時代を遡るような使い方をしている。
スマホひとつあれば、携帯型ミュージックプレイヤーにもなるし、カメラにもなるし、他にもたくさんのことが出来るので、とても便利なのだけれど、なんだか便利すぎるものを使っていると脳みそを使わなくなるというか。
ひとつ一つのことを腰を据えて取り組むことが少なくなり、点でしか捉えなくなってしまう。
点で捉えるということは、出来るだけ考えない、考える機会がなくなるということで、実に危険なことだとも思うんですね。
以前はそんなこと全く考えたことはなく、便利になればなるほど良いに決まっていると思い、点で物事を捉えることに疑問すら感じていなかったのですが、ある時、ふと、
「おれ、そう言えば、昔と比べてものを考える力が衰えているのではないか?
物事を主体的にではなく、相対的に捉えるようになってきてはいないか?
それって、スマホを使い始めた頃と時期的に合致しない?」
と思い、それから徐々にスマホだけには頼らないようにしています。
もちろんスマホが悪いとか、そんなことは全く思ってはおらず、むしろ逆で、テクノロジーの進化は大歓迎な人間です。
私が危険だなと思うのは、考える機会が減ったり、効率ばかりが重視されて、物事に腰を据えて取り組むということが疎かになってしまうことです。
普段、一番身近に接しているスマホの感覚に慣れてしまうと、他の物事まで点で出来てしまうような感覚になってしまう。
それは結構怖いことだなと。
カメラを買ったのも、そのような考えもあって買ったというのもあります。
なんというか、機能を分けて使いたいんですよ。
一昔前は、携帯電話、携帯型ミュージックプレイヤー、カメラと別々だったのが今はスマホひとつで済むので、ありがたいことではありつつ、ひとつ一つへの愛着なり温度が下がる気がして。
私は元々写真を撮ることが好きだったので、カメラを買うという行為に出ました。
好きなことにはそれなりのコストはやはりかけるべきですし。
正直、出費は痛いですけどね。
写真を撮るという性能だけで言えば、スマホもカメラもさほど変わらなくなっていますが(一眼レフやミラーレスだとカメラの方が優れてますが、安いコンパクトカメラなどはスマホのカメラの方が優れてたりします)、カメラで写真を撮るという行為そのものに意味があるような気がします。
やはり、撮った写真には、以前よりも愛着が持てています。
私はたまたま写真が好きだったので(中学の頃は写真放送部)カメラを買いましたが、それほど好きでもない人はスマホのカメラでも良いとは思います。
ただ、自分の好きなものや興味のあることくらいは、じっくり取り組む、腰を据えてやってみる、しっかりコストをかけるというのは大事なことだなと思ったりします。
最近、読書の習慣を復活させたのですが、それもこういった考えのもと。
以前はインターネットの情報のみで十分と考えることが多く、情報を点で捉えることが多かったのですが、今にして思うと、情報がうわ滑るするというか、しっかり入っていっていなかったなと。
インターネットの情報は玉石混合なので、ソースはちゃんとしているのか?偏った情報にはなっていないか?などは注意深く見るようにはしているのですが、肝心の情報を自分の血肉に変えるところまでは行かないことが多かったように思います。
あらゆることが、「ふーん」で終わってしまい、そこから先に繋がりにくい。
これも、物事を点で捉えてしまう弊害ですね。
あらゆることが、点でしか存在しないので、体系的に捉えることが出来ないのでしょう。
読書をすることによって、情報が点ではなく、線や面、はたまた立体的、多元的に捉えることが出来るのではとは思います。
ただ、インターネットは必ずしも悪いものだとは思ってなくて、きちんとその情報に向き合って見ていけば、血肉にはなるとは思います。
哲学者のアリストテレスも、一回やったくらいで物事はうまくならんから、腰据えて取り組めというようなことを言ってますし。
何千年も前のギリシャ人の言うことですが、最近はこのような考えが特に腑に落ちるのです。
スマホひとつあれば、携帯型ミュージックプレイヤーにもなるし、カメラにもなるし、他にもたくさんのことが出来るので、とても便利なのだけれど、なんだか便利すぎるものを使っていると脳みそを使わなくなるというか。
ひとつ一つのことを腰を据えて取り組むことが少なくなり、点でしか捉えなくなってしまう。
点で捉えるということは、出来るだけ考えない、考える機会がなくなるということで、実に危険なことだとも思うんですね。
以前はそんなこと全く考えたことはなく、便利になればなるほど良いに決まっていると思い、点で物事を捉えることに疑問すら感じていなかったのですが、ある時、ふと、
「おれ、そう言えば、昔と比べてものを考える力が衰えているのではないか?
物事を主体的にではなく、相対的に捉えるようになってきてはいないか?
それって、スマホを使い始めた頃と時期的に合致しない?」
と思い、それから徐々にスマホだけには頼らないようにしています。
もちろんスマホが悪いとか、そんなことは全く思ってはおらず、むしろ逆で、テクノロジーの進化は大歓迎な人間です。
私が危険だなと思うのは、考える機会が減ったり、効率ばかりが重視されて、物事に腰を据えて取り組むということが疎かになってしまうことです。
普段、一番身近に接しているスマホの感覚に慣れてしまうと、他の物事まで点で出来てしまうような感覚になってしまう。
それは結構怖いことだなと。
カメラを買ったのも、そのような考えもあって買ったというのもあります。
なんというか、機能を分けて使いたいんですよ。
一昔前は、携帯電話、携帯型ミュージックプレイヤー、カメラと別々だったのが今はスマホひとつで済むので、ありがたいことではありつつ、ひとつ一つへの愛着なり温度が下がる気がして。
私は元々写真を撮ることが好きだったので、カメラを買うという行為に出ました。
好きなことにはそれなりのコストはやはりかけるべきですし。
正直、出費は痛いですけどね。
写真を撮るという性能だけで言えば、スマホもカメラもさほど変わらなくなっていますが(一眼レフやミラーレスだとカメラの方が優れてますが、安いコンパクトカメラなどはスマホのカメラの方が優れてたりします)、カメラで写真を撮るという行為そのものに意味があるような気がします。
やはり、撮った写真には、以前よりも愛着が持てています。
私はたまたま写真が好きだったので(中学の頃は写真放送部)カメラを買いましたが、それほど好きでもない人はスマホのカメラでも良いとは思います。
ただ、自分の好きなものや興味のあることくらいは、じっくり取り組む、腰を据えてやってみる、しっかりコストをかけるというのは大事なことだなと思ったりします。
最近、読書の習慣を復活させたのですが、それもこういった考えのもと。
以前はインターネットの情報のみで十分と考えることが多く、情報を点で捉えることが多かったのですが、今にして思うと、情報がうわ滑るするというか、しっかり入っていっていなかったなと。
インターネットの情報は玉石混合なので、ソースはちゃんとしているのか?偏った情報にはなっていないか?などは注意深く見るようにはしているのですが、肝心の情報を自分の血肉に変えるところまでは行かないことが多かったように思います。
あらゆることが、「ふーん」で終わってしまい、そこから先に繋がりにくい。
これも、物事を点で捉えてしまう弊害ですね。
あらゆることが、点でしか存在しないので、体系的に捉えることが出来ないのでしょう。
読書をすることによって、情報が点ではなく、線や面、はたまた立体的、多元的に捉えることが出来るのではとは思います。
ただ、インターネットは必ずしも悪いものだとは思ってなくて、きちんとその情報に向き合って見ていけば、血肉にはなるとは思います。
哲学者のアリストテレスも、一回やったくらいで物事はうまくならんから、腰据えて取り組めというようなことを言ってますし。
何千年も前のギリシャ人の言うことですが、最近はこのような考えが特に腑に落ちるのです。
- 関連記事
-
-
「あつまれ どうぶつの森」が楽しすぎる 2020/05/03
-
スマホと上手に付き合っていかないとバカになる 2020/04/20
-
「おしゃべりクッキング」でやってた麻婆豆腐が食卓に出てくる 2020/04/20
-
新しいぬいさん「たっとん」を迎え入れる 2020/04/17
-
アラレちゃんのいぬのかぶりものガチャガチャをはつおくんに被せる 2020/04/11
-
アマゾンビデオで「Dr.スランプアラレちゃん」を見てます 2020/04/11
-
メニエール、通院終了できた 2020/04/09
-
オードリーの椅子破壊事件は何度見ても面白い 2020/04/05
-
財津和夫の「青春の影」を何年も経てようやく分かるようになる 2020/04/03
-
| ホーム |